シンガポールスリング

「マサエ、悪いんだけどディリ―の代わりにガイド頼むわ」
 パスポートを紛失した客に付き添うためマレーから戻って来れない同僚の代理を言い渡されたのは、ツアーのはじまる前日の午後だった。
 盗難さわぎなんて珍しくない。
 ウチの事務所関係でおきた東南アジア全域の揉め事をここシンガポールで仲介してるので年間通すとかなりの数になる。
 それだけじゃないわ、最近はどこのツアーも現地ガイドについてアンケートとってたりするから大変なの。
 「あのガイドは言葉がうまく通じなかった」とか、「ガイドに連れていかれた店からおかしな請求がきた」とか、イチイチイチイチ頭下げて代理店側の苦情を聞かなくちゃならないなんて。
 ったく、これじゃ日本にいるときと変わらない。
 ……まあ、日本人相手の商売なんだから仕方ないんだけどさ。
 「OK。幸運を祈るわ」
 あたしは書類を受け取り、夜自分の部屋に戻ると目も通さずに眠ってしまった。







  朝。
 起き抜けのぼさぼさ頭を掻きあげながら、昨日もらった書類を封筒から出してチェック。
 ふーん、ハネムーンコースかあ。
 バリ島メインでここは1泊のみ。
 楽ちんね、適当に写真撮ってあげて、夜は気の利いたバーでも紹介すりゃいい……ん?
 「えっ」
 名前欄に書かれてる名前を見てドキッとした。
 堤見涼介。
 昔別れた男の名前だ。
 同姓同名?
 ううん、年齢も同じ、多分本人だ。
 おそるおそる写真を確認。
 ……やっぱり。
 信じられない。
 こんな偶然ってある?
 あたしはソファにどかっとあぐらをかいてその懐かしのフェイスをまじまじと見つめた。
 ああ、ショック、何てことなの!
 彼こそあたしをシンガポールへと旅立たせた元凶。
 その張本人の新婚旅行のガイドをやれって?
 「冗談じゃないっ」
 書類を座面に押しつけて洗面所へいき、蛇口ひねって顔をばしゃばしゃ洗う。
 全然すっきりしない……。
 鏡に映る自分のスッピン顔に口を尖らせてみる。
 もぉっ、メイクする気にもならない。
 ツーカンピーと晴れ渡った熱帯のバカ空もうとましくなる。
 せめて昨日のうちに気付いてれば断ることもできたでしょうに……バカバカ!
 ねえ、女1人遠い異国で働く理由を考えてみたことがある?
 昔の傷を癒したいの、忘れてしまいたいの、恋なんて……。
 仕方ないからいつもやってるけど、新婚さんのお相手なんてホントはやなんだからっ!
 あたしはあたしの顔を見つめて思いきりため息を吐いた。
 おお、神様、なんてむごい仕打ちを。
 恨むわよ!





  午後4時20分。
 チャンギー国際空港。
 いつものように到着ロビーでボードもってお客を出迎える。
 腕がいつになく重い…。
 サングラスをかけるという姑息な手段でもって直視を避けようとしてるあたし。
 はぁ、なんて無駄なことを。
 そして、なんて滑稽な……。
 逃げ出したい……どうしてこんな役をしなければならないの?
 いーや、これは正式なガイドとしての試練なのよ。
 あたしは自分に言って聞かせる。
 もうそろそろだ。
 到着便のアナウンスが流れて15分たった。
 ああ、ああ……。
 ドキドキ鼓動が早くなる。
 あ、あ、あれかな?
 ち、違った……。
 日本人のカップル見るだけで眉をひそめちゃう。
 えーい、何年目よ、あたしっ、頑張れっ!
 はっ。
 あ、あれだ……!
 見つけてしまった。
 というより目に飛び込んできた。
 彼と彼女のツーショット……。
 涼介、黒いサングラスかけてるけど間違いない。
 忘れてるはずなのに『間違いない』なんて残酷ね……。
 「堤見さん……ですね」
 近寄ってあたしは努めて冷静に言った。
 「あ、はい」
 彼の前にいるかわいい女の子があたしを見て笑いかける。
 一方彼は……かけているサングラス越しにあたしを見て、ぴくっと視線が止まった。
 「あ……?」
 ゆっくりサングラスを取る。
 びっくりした顔……。
 まっすぐあたしを見てる。
 あ、あ、変わってないっ……あたしは胸が震えた。
 涼介……。
 あたしがつきあった中じゃダントツ好みのタイプだ。
 くっきりすっきりしたいやみのない顔、程よい背丈、グレーのTシャツ、褪せたブラックジーンズ、ああ……。
 「もしかして……」
 涼介の口が開く。
 ま、まずっ!!
 あたしはくるっと横を向いた。
 ドキドキドキ……。
 胸のざわめきをボードで抑えつけ、斜め横向いたまま早口で言った。
 「わ、私、今日と明日、お客様のご案内をさせていただきますガイドの石森です。少しの間ですがどうぞよろしくお願いします」
 わ~~、こんなガイドいるかいっ。
 でもとてもじゃないけど顔なんて見れないわっ。
 「あ、あの、ちょ、ちょっ」
 涼介はあたしに何か言いたそうに手を伸ばした。
 あたしはさーーっとそれを退けるように早足で車のところまで案内する。
 「シンガポールは初めてですか? バリに8泊もされるんですよねえ。暑くて驚かれたでしょう……」
 あたしはリムジンの助手席で『運転手の』方を向いて喋りつづけた。
 ちらっと横目で感じる視線。
 涼介はじっとあたしを見ている。
 ひぇ~、なんてお馬鹿な役どころなんだろう。
 気付かれてるっていうのに……。
 でも……、まさか、「こんにちは~。覚えてる?」何て言えないじゃない?
 「あたしよ、あたし。涼介ひさしぶり」
 「おおー、お前、こんなところで何やってるんだよ~」
 「うふふ、見てのとおりガイドよ。あたしがおふたりを、『ば~っちり』ガイドして差し上げるわ。こんにちは~、奥さん、あたし、ダンナさんの古いお友達で~す」
 「え?」
 「オイオイ、すげぇ偶然だなあ」
 「うふふ~」
 ……そんな風に持っていけるわけがない。
 いや、持っていったほうがよかったのかもしれないけど……既にタイミング悪いし。
 彼に口をあける隙を与えまいと必死であたしはべちゃくちゃ喋りつづけ、ホテルに着いた。
 ラッフルズホテルだ。
 サマセットモームで有名なコロニアル風の優雅な高級ホテル。
 もう何度も来てるけど改めて思うわ。
 ガイドじゃなくてガイドされて来たいわよ!
 こんなとこ……。
 それを昔の男のハネムーンに付き添って来てるなんてっ!!
 あたしは貫禄のあるアラブ風のドアボーイに愛想笑いしてロビーに入り、チェックインの手続きをした。
 「喫煙ですが、ご旅行のしおりにある通り、吸われる場合はお部屋の中か灰皿のある場所にして下さい。オープンエアーでは原則的に禁煙となります。今晩はあちらの奥のレストランでディナーとなりますので、このミールクーポンを渡してくださいね。私は明日の朝10時にお迎えに参りますわ」
 あたしはぺこっと頭を下げてさっと後ろを向いた。
 涼介、今もヘビースモーカーなのかな……。
 そんなことチラッと思いながら。
 「あ、ガイドさん……」
 涼介の声が聞こえた。
 自然と早足になる。
 彼にとっては不思議でならないだろう。
 あたし、バレバレなのに知らない人ぶってるんだから……。
 「ツァイチェン」
 冷房の効いたロビーを出るととたんに熱帯のむあ~っとくる熱気があたしを包んだ。

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