シンガポールスリング3

ここは女性にとって仕事しやすい街。
でも何かしら物足りないものもある。
あたしは涼介に再会してそれを思い知らされたのだ。
危険な恋の香り、恋愛の駆け引き、セックスアピールのある男(女も?)……。
涼介……。
くやしいけど相変わらずいい男ね。
「おはようございます」
2日目の朝、あたしは2人を迎えにロビーに行った。
涼介、サングラス外してる……。
プラス、上から下まで日本のメンズ雑誌のようにさりげなく着こなしてる姿を見ないように見ないようにガイドする。

午前中は植物園を見学してオーチャードのホテルでチャイニーズの昼食。
その後タウンを自由行動、4時にピックアップして空港へ……。
楽チンコースの見本なのよ。
今回のようにシンガポールがメインでない、あるいはショッピングだけで観光はいらないっていうお客様が多くて日本のカウンターで選んでもらっているの。
2人もきっとオーチャードで指輪とか買うんだろうな。
その想像をかき消すように、いや、消すためにも昨日の調子であたしは喋りつづけた。
「あ、写真を撮りましょうか」
あたしは植物園の入り口広場でついいつものセリフを言いいそうになって口を閉ざした。
観光スポットってここだけだからしなきゃいけないこと。
でもダメ。
話す機会を与えるわけにいかないわ。
1時間ほどしたら戻ってきて下さいとだけ言って、またさっさと運転手のところへ戻る。
涼介はあたしの顔を見ていた。
喋りかけてきそうだった昨日ほどじゃないけど、言葉をかみ締めてるなっていうのがあたしには伝わった。
彼もやりにくいだろう、奥さんの手前。
馬鹿ね、あたし……。
「やっほ、元気?」そうひとこと切り出せばよかったものを。
これじゃ苦虫つぶしてるだけだわ。
ものすごい後悔の渦が巻き起こる。
その中心にあるのは誰にもいえない小さな思い、記憶……。
あたしは続々とパークにやって来る観光客を見ながら運転手と全然違うことを話し込んで気を紛らせた。





 戻ってきた2人を再び車に乗せ、オーチャードのマンダリン目指す。
もう安全圏でしょう。
あたしは普段どおり前を向いて運転手と喋っていた。
気まずいけれど、話し掛けてはこないだろう……。
そんな安心感みたいなものが芽生えていた。
車を降りて、エレベーターでマンダリンホテル上層階のチャイニーズレストランへ案内する。
ここはシティのど真ん中だ。
日本にもよくありそうな、でも本格的な飲茶コースが手軽に食べられる便利な店。
「こちらでは飲茶のお食事になります。食後は自由行動ですので、4時にホテルの方へ戻ってきてください」
「あ、ホテルに戻らないといけないんですか?」
奥さんの口が開いた。
あたしはちょっとどきっとした。
「ええ」
「こっちの方が都合いいんですけど、ダメですか?」
奥さんは涼介を見ながら言った。
涼介は頷く。
何か言いそうになる。
あたしは急いで返した。
「荷物の確認がありますが」
「あ、そうですか」
残念そうな顔。
「……それでは4時前にここへ参りますので、それからホテルへ寄りましょう」
「よかった~。おねがいします~」
あたしはにこっと笑い顔を作って2人から離れ、またまたどきどきしながら下のロビーへ降りた。





 2人は時間どおりそこに現れた。
荷物も増えてなくて、観光客というより普通に街を歩いてるカップルのようだ、東京の街を……。
2人は東京の香りがする。
あたしは複雑に揺れていた。
いやでいやでやりきれなくて逃げたくせにどこか懐かしい……。
そして、愛しい……。
あたしの中の遺伝子は死ぬまで変わらないんだな。
そう認識したに過ぎなかった。
あたしは車の中で黙っていた、多くの場合そうであったように。
今度こそ「さよなら」だ。
あともう少し。
30分くらいだけど、長い沈黙に思えた。
彼があたしを向いていたかどうか、わからなかった。
「それでは、よいご旅行を」
チェックインカウンターで搭乗券を渡し、2人に深く礼をして顔を上げたときあたしはできる限りの笑顔をした。
終わった……。
後ろを向いて歩き出すと、今来たルート、出口を目指す。
どっと肩の力が抜けてく。
サングラスを取るといつもの視界が戻ってきた。
見慣れた空港のワンシーン。
次々と増床され、物語る歴史や郷愁など微塵も感じられない近代的な巨大空港は、まぎれもなく世界有数の多民族の分岐路だ。
2度と会うことのない人々。
日本では考えられない小汚い荷物をいっぱい抱えた人たちの長い列、旅慣れた様子の白人の家族連れ、そのすぐ隣で日本人の添乗員がツアー客を誘導し……。
「ガイドさん!」
あたしはぼおっとそれらを見ながら歩いていた。
「待って、ガイドさん……マエ!」
その中を、真っすぐあたしの耳に飛び込んできた、
「マエ!!」
懐かしい、声。
あたしの、名前……。
あたしは振り返った。
「マエ……。マエだろ?」
涼介が、そこにいた。
大きく肩で息をしている。
「あ、オレ、驚いたよ。まさかこんな所でお前に会うなんて……」
涼介はあたしを見つめて言った。
あたしは黙って彼を見つめた。
何も出てこない。
頭の……心の中空っぽだ。
逃げ出せばいいのに、知らん振りして行っちゃえばいいのに、できない。
「マエ、マエなんだろ?」
涼介……。
なんで戻ってくるのよ。
「どうしてこんな所で……。オレ、探したんだぜ?」
涼介はなじるようにあたしを見た。
「……ひょっとして、オレのせい?」
ああ、もうダメ。
でも、まだ……。
あたしは必死にこらえていた。
「マエ……」
その気持ちが彼に伝わっただろうか。
あたしたちはしばし見つめ合った。
アナウンスはひっきりなしに流れていた。
それと、雑踏……。
全てあたしたちを通り抜けた。
「マエ……。愛してるよ」
彼はじっとあたしを見つめて言った。
あたしは全然動けずに、まばたきさえできずに、彼を見つめていた。
「また……連絡するから」
彼は一瞬あたしに触れかけて、さっと後ろを向いて走って行った。
その背中が見えなくなるまで……あたしは我慢していた。
ピカピカのフロア面が、人が、電光掲示板がにじんでいっしょくたになってく……。
とうとう耐えきれず、すーっと涙が頬を伝った。
「うっ、う……」
あたしは肩を震わせ、泣き始めた。
何もかも崩れてく、全部思い出してしまった、あのころの涼介、あたし、2人の時間……。
ぐるぐるぐるぐる頭を巡り、胸がいっぱいになって、泣き叫びそうになるのを抑えるのがやっとだった。
ダメじゃん、あたし……。
全然忘れてないじゃん、まだ好きじゃん。
涼介お見通しじゃん、愛してるなんて……。
「愛してるなんて……」
あたしは呟き、心から後悔した。
それはよくあること、ほんの少しの亀裂、行き違い、あたしがカドを立てなければそのまま済んでいたことだったのだ。
わかっていた。
あたしをマエ、マエって呼ぶのは今も昔も彼だけだ。
石森政恵なんていうおばさんくさい平凡なあたしの名前も彼にかかればまるでトレンディドラマのヒロインのように響いた。
何よりも誰よりも好きだった、涼介……。
そうよ、本当に姿を消してしまいたければもっと遠くの国を選んだはず。
それを中途半端なシンガポールなんて所に留まっていたのは……心のどこかで期待していたからだ、離れたくなかった。
「愛してる」
必要かつ最小限の言葉だけ残して消えた涼介。
全てを包み込むような……そのたったひとことで打ち砕かれた、愚かなちっぽけなあたし。
「うううう……」
あたしの涙は、止まらなかった。

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