シンガポールスリング4

「マサエ、マサエ」
あたしはヴィヴィアンに連れられサウスシティのレストランのカウンターでうつぶせていた。
泣き止まないあたしを不審に思ったガードマンが事務所に連絡したのだ。
情けないこと……。
また一から出直しだ。
精神的に。
「電話もらって驚いたわよ、マサエがね~」
反対にディリーの件が片付いた彼女は落ち着いてあたしの相手をしてくれた。
あたしはできる限りのことを白状した。
英語だから細かい感情は伝わらないかもしれないけど。
それでも彼女の言葉はあたしには何よりの励みになった。

「マサエ……。そんなことなら言ってくれればよかったのに。いくら人手が足りないからって昔のボーイフレンドのガイドをさせる気なんてないわ。でも何だか運命的ね」
『ふふ、運命?』
あたしは内心笑う。
そうね、あたしが彼のことまだ好きだってイヤと言うほど思い知らされたわ。
そんな、運命……。
「ドラマチックね。こんなこと滅多にないわ。マサエ、今は辛いだろうけどきっとすぐにいい運が巡ってくるわ。その前兆なのよ」
「ありがとう」
ヴィヴィアンは39歳。
小柄でポチャッとしてて、素朴で実直、典型的なシンガポーリアンだ。
共働きで、二人いる子供の世話は両親が見ている。
彼女の人懐っこい笑顔があたしの支えだ。
そうなのよ、もうドラマのような恋に踊らされることはないわ。
あたしにはここシンガポールが落ち着くの……。
気持ちばかり先走って結果的に空虚な関係を追いかけてるなんて遠い異国のお話よ。
あたしはやっと気持ちが落ち着いて、顔を上げた。
「しばらく内勤の方お願いするわね。マサエ」
ヴィヴィアンはにこっと笑ってあたしにウィンクした。





それでもやっぱり眠りは浅くて涼介の顔ばかり浮かんだ。
朝、寝不足の目をシャドーとマスカラでごまかして事務所に出社する。
ヴィヴィアンはそんなあたしの顔を見て微笑んだ後書類を回した。
新規の旅程表何枚か。
日本のツアーコンダクターのおじちゃんからのものだ。
何度かガイドをして仲良くなり、団体企画ツアーの度に使ってくれるようになる。
いやなことも多いけどそういうお客さんの言葉に励まされることもまた多い。
何より日本語だからダイレクトに伝わるの。
「ありがとう」とか「また頼むよ」とか言われると無条件に心があったかくなる。
あたしは大人しくそれをパソコンに入力していた。
そして昼過ぎ、昼食に出ようとした、その時だった。
「マサエ、あなたに電話よ」
ヴィヴィアンに呼び止められてあたしは自分のデスクに戻った。
「日本人よ」
受話器を取って、
「もしもし、代わりました、石森です」
『あ、マエ……?』
ドッキン、心臓が飛び出そうになる。
涼介の声だ。
また体中に動揺が走る。
でもここは事務所、あたしは感情を抑えた。
『マエ、話がしたいんだ』
「な、何でしょう……」
あたしは他人行儀な日本語で続けた。
気持ち小さな声、それ以上出すと震えそうになる。
『お前の携帯の番号、教えてくれないか。話がしたい』
「そ、それは……」
携帯? ドキドキドキドキ……止まらない。
『教えてくれ。部屋の番号でもいい』
「部屋には引いてません」
『なら携帯の番号教えてくれ。いいだろ、マエ』
いいだろって……。
どうして?
今何してるの?
奥さんは?
どんどん鼓動が早くなって、ドックンドックン脈打ってるのが周りの人に聞こえるんじゃないかと思うほどだ。
「できません」
『じゃ、オレ、そこ行くぞ』
「え?」
『近いもんな』
本当に軽く言ってのける彼の言葉にあたしは焦ってしまった。
「……こ、困ります」
『行くよ。ひとりで』
ドッキーンとまたまた大きく心臓が波打つ。
ひとりって、な、なぜ?
「マサエ。何なの?」
受話器を持ったまま話の進まない私にヴィヴィアンが声をかけた。
「あ、あ……」
あたしはどぎまぎするのと気まずいのとで電話口に向かってつい携帯の番号を言ってしまった。
『……わかった。すぐかけていいか?』
「え?」
えーー?
あ、あたし、バカみたい、電話ひとつでこんなにバクバクしちゃって……!
『ちょっと抜け出せよ。話がしたい』
涼介は電話を切った。
あたしは受話器をゆっくり下ろした。
ヴィヴィアンは何か勘付いたのかちょっぴり頬を緩ませ、すぐに仕事の顔に戻った。

Comments

Popular Posts